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沖縄自治研究会

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復帰前後の沖縄自治州(特別自治体)構想

復帰前後の沖縄自治州(特別自治体)構想
江上 能義(早稲田大学教授)

 沖縄は1972(昭和47)年5月15日に日本(本土)に復帰した。施政権が返還されたこの年の前後の時期は、米軍施政権下の復帰運動が反基地闘争や自治権獲得運動などとも連動して沖縄は激しく揺れ動いた。沖縄の本土復帰のあり方をめぐってこの頃、「核抜き本土並み」返還の是非など、さまざまな角度から論争が展開されたが、そのひとつに沖縄自治州(特別自治地域)論があった。
 復帰前後の当時、この沖縄自治州論に耳を傾ける人々はほとんどおらず、“世替わり”の激流の中に飲み込まれて消え去ったかにみえたが、その復帰10年の節目の頃に特別都道府県構想(宮本憲一)、沖縄特別県構想(沖縄県自治労)、沖縄自治憲章(玉野井芳郎ほか)などの沖縄の自治への試論が活発に展開され、その際に再び、復帰当時の沖縄自治州論が取り上げられて再考された。その後も沖縄の自治や自立をめぐる論議の炎は受け継がれて今日に至っており、こうした論議が高まるたびに必ずといっていいほど沖縄独立論とともに沖縄自治州論が姿を見せる。地方自治体改革の一環として道州制に向けた動きが本格化すると予想される昨今、その主張を検証して「日本の中の沖縄」や「日本と沖縄」をめぐる今後の議論の一助になればと思う。本稿では、この沖縄自治州論の代表的な4名の主張を考察する。その4名とは、平恒次、比嘉幹郎、久場政彦、野口雄一郎の4氏である。

1 平恒次の「沖縄特別自治体」構想・・・“「琉球人」は訴える”(『中央公論』1970年11月号)
                       
(1)なぜ「琉球人」なのか?

まず初めに取り上げるのが平恒次氏である。彼は4名のなかで最も早く沖縄自治州論を展開している。1926年に沖縄で生まれ、戦後のいわゆる「米留」組のひとりであり、ニューメキシコ大学やウィスコンシン大学の学部で学び、ウィスコンシン大学で修士、スタンフォード大学で博士の学位(経済学)を取得した。そしてイリノイ大学で教鞭を執っていた平氏は、『中央公論』誌の1970年11月号で、“「琉球人」は訴える” というタイトルで論説を書いている。なぜ「沖縄人」ではなく「琉球人」なのか?1945年から72年までの27年間の米国統治下における沖縄は、「琉球」と公式には呼称される場合が多かった。また時代をさかのぼれば、琉球王国として独立を保持した時代があった。1879(明治12)年、日本に完全に併合されて琉球王国が消滅し、沖縄県となった。平恒次氏自身は次のように述べている(1)。

私は、第一次的に「琉球人」であって、琉球という「わが国」がたまたま国際法的に、日本という主権国家に所属しているためにも、私も「日本国籍人」であるという意識構造をもっているのである。・・・右のような、個人の意識における「国」の重層性を理解することは、1972年に予定される沖縄の日本復帰において、決定的な重要性をもっているからである。もし、沖縄住民が、第一次的に「琉球人」であり、第二次的に「日本国籍人」であることが、日本国家の枠内の論理では、理解しがたいというのであれば、ぜひ、スコットランド人やジュネーヴ人の意識構造に思いをいたされたい。

第一次的にはスコットランド人であり、第二次的には英国人である、第一次的にはジュネーヴ人であり、第二次的にはスイス人であるのと同様な国家構成の座標が、琉球と日本との間にあるということが、沖縄の日本復帰に際して意識的に活用されなければ、沖縄住民の幸福は確保できないのではないかと平氏は危惧している。なぜならば「連合王国対スコットランドや、スイス連合国対ジュネーヴという関係が、民主的国体の一つの典型であるとするならば、日本対琉球という関係も、同様な民主的精神によって貫かれなければならないと思う」(2)からである。その主張は、多くの国で生活し研究した平氏自身の経験から生じた「わが琉球は、明らかに、一国たるに値する伝統と文化をもっている」(3)という確信に支えられていた。このことをすべての「日本人」にわかっていただきたいと彼は言う。そして琉球を一つの独立国として認識することから、「復帰」のあらゆる戦術が出発しなければならない、と言い切るのである(4)。
日本と同格の琉球、これを出発点とすれば、「日本復帰」は琉球国の日本国への合併申し込みのようなもので、合併条件のいかんによっては合併拒否の行動も選択範囲にある。小なりとはいえ、琉球が独立国であるならば、独立国日本と同格であるのが当然であり、そういう見地からお互いに納得のいく合併条件を作り出すことこそが重要なのである。明治時代とは異なり、民主主義国家である現在の日本の国家指導者たちは、よもや「琉球処分」的手法はとらないであろう(5)。

(2)1972年の選択

 「一民族一国家というスローガンには、なんらの同義的強制力があるわけではない。日本民族が、多数の国家に分属したうえで、連合国としての日本を作り上げることができたとしたら、日本の国家は、もっと理性的なものになっていたであろう」(6)と彼は述べる。
だが現実の日本は一億の大きな人口を擁し、中央集権度の高い単一国家となっていて、とてもスイス連合国やアメリカ的連邦にはなれない。だがそれらから学ぶべきことがあるのではないかと平氏は問いかける。それは地方分権であり、地方自治である。

 今や、日本の地方自治は「三割自治」またはそれ以下になりさがっている。もし、琉球に関して私が提言しているような、地方の独立が達成され、国と地方との関係が、民主主義と地方自治のあるべき姿に戻ることができれば、近代国家としての日本は、それだけ脱文明過程における巨歩を進めたということもできる。琉球の特殊な地位が、日本の体制に新しい地方自治精神をふきこむ契機ともなれば、日本民族の歴史における琉球の使命の一端が実現されたともいえるのではなかろうか(6)。

1972年に独立国琉球の建国、ついで日琉合併というのが、もっとも望ましい形での「日本復帰」なのだが、その実現可能性はきわめて低い。だがたとえそれが実現しなくても、日本における地方制度がこの形式に似た柔軟性を秘めていることに彼は期待をつなぐ。

(3)「沖縄特別自治体」構想

 アメリカの琉球統治の終了と同時に、琉球を「沖縄県」としていきなり日本国内にとりこんで、即座に「本土なみ」に、制度、法律のよしあしにかかわらずおしまくるというのではなくて、「沖縄特別自治体」のようなものにして、中央と地方の関係におけるまったく新しい実験を試みたらどうかと、彼は提案する。この「沖縄特別自治体」を、「琉球共和国」から位階一等を減じたようなもの、と注記している(7)。もし地方自治における県制にかわるこの新制度が成功するならば、同制度を希望によっては他府県に及ぼしたらどうだろうかと平氏は提案する。1972年の沖縄復帰を契機に、日本が歴史の再認識と地方自治の再検討へと進むことを切望すると、彼は述べている(8)。

 こう見るならば、1972年は、琉球にとってのみ、重要な選択と決定の年であるばかりではない。日本の国としての近代性が問われる年であるともいえる。私は心ある「日本人」に訴えたい。日本の各県、各地方にも、あらためて見直すならば、わが琉球の独自性にも似た、独特の伝統があり文化があるのではないかと。
 地方のこういう特徴が、国家および国民経済の都合によって、たえずふみじられるというのが、日本のいわゆる「近代化」の全過程ではなかったろうか(9)。

 ともあれ沖縄だけに適用される「特別自治体法」を立法することになるが、それは現行法の範囲内で十分に可能である。憲法第95条と地方自治法第261条にその可能性が含まれている。
 憲法第95条によれば、「一の地方公共団体のみに適用される特別法は、法律の定めるところにより、その地方公共団体の住民の投票においてその過半数の同意を得なければ、国会は、これを制定することができない」と規定されている。だから特別法によって、沖縄を特別自治体として設置し、その法律を沖縄の人民投票によって制定するということは、日本国と沖縄住民との間の一つの契約と解釈することができ、この種の法律を、「日琉合併条約」らしいものに作り上げることができるのではないかと彼は述べる。
 このようにして平氏は、琉球の日本国への参加を、日本における地方自治の新しい突破口にしたいと念願している(10)。

2 久場政彦の「沖縄特別地域」構想・・・“なぜ「沖縄方式」か”(『中央公論』1971年9月号)

(1)非武装化を求める沖縄
 
 1920年に沖縄で生まれ、明治大学、ミシガン州立大学大学院で経済学を学んだ久場政彦教授は当時、琉球大学で教鞭を執っていた。上記の論説の冒頭で彼は、同年6月17日に日米両政府間で執り行なわれ、宇宙衛星中継によってテレビに映し出された沖縄返還協定の調印式が、沖縄の人々に名状しがたい疎外感を与えたと述べている(11)。なぜなら、この協定の内容自体が沖縄の民意からはるかにかけ離れていたからである。沖縄の人々が希求する日本復帰というのは、たんに施政権を米軍の手から日本に移すのではなく、復帰を機会に脱軍事基地の沖縄の新しい体制を確立し、平和を確保することにある。
悲惨な沖縄戦の後も27年間にわたって過酷な米軍支配下に置かれ続けた苦い経験から、有事の際に再び国益の名の下に沖縄が戦場化し、本土の限界地域として具合が悪くなったら真っ先に切り捨てられる憂き目を沖縄の人々はもう二度と味わいたくなかったのである。だから沖縄の人々が本土に強く求めるものは、復帰後は早急に軍事基地的色彩を払拭してもらいたいということであった。

沖縄を国際緊張の前線要塞としてではなく、緊張緩和の緩衝地帯として、たとえば、教育・文化・経済の国際交流の場として活用するのであれば、沖縄の人々はこの新しい使命に勇躍するであろう。そして、このことはまた、平和日本の姿が沖縄をとおして鮮明にされ、日本の国際社会での評価を高めることにもなると思う(12)。

 沖縄の非武装化という主張は、日米両政府の態度からもまったく無意味のようにみえるかもしれない。だが「万物は流転する」(ヘラクレイトス)というように、時として思わざる速さで思わざる方向に動いていくことがあると久場氏は言う。おりしもこの頃、キッシンジャー国務長官が秘密裡に北京を訪問し、その後、ニクソン大統領の中国訪問を発表(1971年7月)、世界を驚かせ、佐藤政権にも大きな衝撃を与えた。

 このような変転の作用の中に、沖縄の人が軍事基地を脱した、国際的平和交流の拠点としての新しい沖縄建設の機を掴もうとうかがうことに何のおかしさがあろう。米・中両国が国交を回復し、友好を進めようとしている状況下において、同じく日・中関係の早急な改善をのぞんている日本が両国のために協力しうる積極的な方策は、沖縄の非武装化ではないだろうか。・・・中国の脇腹に筒口を向けた砲座を据えておいて、米・中あるいは日・中の友好関係が促進されるはずがないからである(13)。
(2)基地依存経済を脱却するための公共主導による地域開発の緊要性

1970年の時点で米軍基地からの収入は、沖縄経済のGNPの30%弱と比重が非常に大きかった。だから脱軍事基地を主張するならば、いわゆる基地依存経済から脱却する産業の開発が不可欠であった。そのためには公共主導による社会資本の拡充に着手し、適正企業導入の誘因を具体的に形成していくほかはない。
だが久場氏は、こうした地域政策が画一的に本土の拠点開発方式の後追いをするものであってはならない、と警告している。なぜなら工業化を主軸として強力に推進された日本の地域開発は、国民生産の急速かつ継続的な拡大という量的な効果をあげてきたが、他面、急激な工業化が公害や自然環境の破壊や人口の偏在という弊害を招いている。こうした弊害を反省した上で新しい地域開発のあり方を沖縄で実施してもらいたいと彼は要望している(14)。

沖縄の土地は米軍が、もっぱら軍事戦略的観点から、ほしいままに占取し、基地を設営してきているために、民側における経済諸要素の配置や、経済ルートの延長はいびつなものになり、効率的活動が阻害されている面もあるが、工業化による国土の損壊が本土ほど顕著でなく、自然的所与、すなわち自然の美しさ、清澄さが現在なお豊富に残っている。したがって、沖縄の開発は、自然と人間活動の調和のある循環の維持を基本とした形でおしすすめることができるはずである。これがうまくゆけば、単に沖縄だけの開発にとどまらず、地域開発の新しいパターンとして「沖縄方式」という名のもとに、日本の各地の開発のよい参考になることができるであろう。そうなると、沖縄の人々は復帰後、経済的にきびしい期間がある程度続いたとしても、この沖縄の担う新しい使命感に支えられて、それは耐えていけるものである(15)。

 そしてこの沖縄方式というエコノミーとエコロジーの調和ある循環を基調とする開発を進める具体策を第一次、第二次、第三次の産業ごとに詳細に検討している。

(3)沖縄を特別自治地域に

 次に、こうした開発を具体化する主体について久場氏は言及する。開発の主体のあり方として、沖縄住民の意思が直接に反映される地方自治体があたらなければならない、と主張する。沖縄の人々が望んでいる平和的開発を確実に実施し、中央から国益の名のもとに軍事的基地としての犠牲を強いられないためにも、このことは肝要であると言う。近年の日本は明治以来の中央集権体制のために地方の独自性が失われ、縦割り行政によって地域社会の共同体意識を希薄化させ、府県行政を非能率化させ、いまや地方自治のあり方に深い反省が加えられつつある(16)。
 沖縄はそのような状況下の日本に復帰し、県単位の自治体の一つとして組み入れられようとしているが、この問題については考え直す必要がある。そして結論としては、沖縄を特別自治地域とすべきであると久場政彦氏は提唱する。その理由として次の3点を彼は挙げている。第1に、戦前戦後を通じての差別の歴史の中で培われた本土への不信感があるので、戦前と同じ行政形態に戻ることによって、再び中央の決定で沖縄の人々の運命が不本意に左右されるような限界地域になりたくない、第2に、米軍支配下において、沖縄の人々は長い苦しい民主的な戦いを通して、主席公選を初めとして行政・租税・教育等の立法権という大幅な権限を実質的に獲得しているので、これを日本に復帰して他県並みになることによって失いたくない、第3に、本土の各県の後塵を拝する形になるのではなく、本土が前向きの姿勢で試みようとしている新しい地方自治の確立のために、そのフロンティアとしての役割を果したい(17)。

 沖縄を特別自治地域にすべきであるというこの構想について、久場氏は70年6月、那覇市で3日間にわたって開催された「沖縄開発シンポジウム」(日本地域開発センターと琉球大学経済研究所の共済)における3名の政治学者(行政学)の発言を取り上げている(18)。
 
・比嘉幹郎琉球大学教授・・・沖縄の特別自治体構想を提案

日本復帰後、沖縄の直面する最大の政治課題は、いかにして中央からの支配を排除して自治を確立するかである。いわゆる合理的、能率的中央集権制と自治的地方分権制との総合、または調整という形で論争が展開されると予想されるが、民主主義の立場からは、当然後者に比重gおかれるべきだと考える。沖縄の地方自治は単なる類似県なみでなく、特別自治体を志向しなければならない。その必要性は、沖縄は文化的に本土の都道府県と必ずしも同一に論ずべきではない。地理的に遠く離れている、それに歴史的背景も異なる。沖縄住民が既得権を主張し、強制的に分断されてきた期間にできた本土の法律や制度の適用に反対するのは、不当ではない。沖縄の自治は住民の闘争によって獲得したものであり、沖縄に特別自治体をおくことは“日本変革”の突破口になるものと確信している。

・井出嘉憲東京大学助教授・・・比嘉提案に賛成

望ましい自治像としての比嘉教授の提案には基本的には賛成である。日本における自治とは、戦前の富国強兵等や戦後の経済成長にいたる経過をみると明らかなように、基本的には地方自治イコール行政でしかなかった。本土と沖縄は単純には重ならないが、地方自治の価値原理からいえば自治とは、人間の生命と暮らしを守る、言い換えれば人間の価値観を目標としたものでなければならないと思う。比嘉提案はその点に立って論及しているので賛成である。

・吉富重夫大阪市立大学教授・・・座長として総括、沖縄の既得の自治権喪失を危惧

政治や行政の仕組というのは、いかにうまく考えられるかにポイントがるのではなく、いかにその土地の気質に合っているかということに重点がある。これはイギリスのラスキンのことばだが、これは政治の根源をついたものと思う。日本の場合、地方自治は北から南まで画一的な制度がとられている。人口や土地にかかわりなく同一制度となっている。これは大きな問題である。こういう画一的制度が、大都市では都市問題の解決を困難にし、過疎の問題についても対応のしかたを誤るという欠陥が出てきている。沖縄が復帰して日本の地方自治法がそのまま適用されると大きな質の転換が現われてくる。沖縄は現在はガバーメントとして高い自主性を持っているが、復帰によってたんに本土の一地方団体に転落する。そこで私は、沖縄は復帰で今まで持っていた自主性すら失うのではないかということを痛感する。

沖縄に幅広い自治権を認め、特別な地域として日本の新しい地方自治体制の先導役をつとめさせるという方向性について、シンポジウムにおける上記の沖縄と本土の報告者たちは一致していた。そして久場政彦氏はこの論説の最後を、次の言葉で結んでいる(19)。

 思えば、沖縄が1872年に海東の小王国から日本の一地方自治体として併合されて以来、ちょうど百年目の1972年に沖縄は再び日本のもとにひきとられ、その行手を定めようとしている。新しい沖縄を受け入れる革袋は、いま日米両国政府の手で政治交渉を通じ着々と準備されつつある。「政治は可能性の芸術である」という。沖縄の人々がこの日本復帰という重大な変革を機に手中に収めたいと願ってやまない平和と自治、これを日本政府は政治の力で可能にしてもらいたい。もしこれが政治のかけ引きにふりまわされて、沖縄の脱軍事基地化の意向に一顧も与えなかったりするならば、沖縄の人々の脳裏には「政治はむしろ可能性抹殺の技術」として印され、心底に政治不信の波動が一段とうねりを高めていくことであろう。

3比嘉幹郎の「沖縄自治州」構想・・・“沖縄自治州構想論”(『中央公論』1971年12月号)

(1)自治構想の必要性

 1950年最年少の19歳で米国に留学した比嘉幹郎氏は、ニューメキシコ大学やカリフォルニア州立大学で学んだ。バークレー校のスカラピーノ(Robert A. Scalapino)教授の下で博士論文を書き、それが65年に『沖縄―政党と政治』(中央公論新書)として出版された。上記の論説を執筆した当時は久場氏と同じく琉球大学教授であったが、その後、79年から西銘県政の副知事を務め、さらには沖縄振興開発金融公庫副理事長を経て現在はブセナリゾート(株)社長である。「私は米国留学で民主主義と自立的・効率的な生き方を学んだ」と語っている(20)。
 沖縄の米軍は、無制約の基地を維持するために、絶対的な施政権まで掌握していた。しかし住民の盛り上がる自治闘争に直面して、この軍事優先策のためには施政権を日本へ返還するのが得策だと判断したのである。だが間近に迫る沖縄の施政権返還に伴って、これから沖縄の自治権の問題が浮彫りになる。なぜなら日本では敗戦直後、米占領軍が意図したように伝統的な中央集権体制が排除され地方自治が確立されなかったからである。そして次のように述べている(21)。
 
返還後の沖縄は、中国との関係で、こんどは日本の軍事的最前線にもなる。本土政府が軍事的理由で沖縄住民の自治権を侵害する危険性は十分ある。したがって、沖縄住民の前途は依然としてきびしく、こんごは本土政府を相手に熾烈な自治闘争を展開しなければならないだろう。

異民族の支配下に置かれてきただけに、沖縄の住民はかなり高い自治意識を持つようになったし、また曲がりなりにも実質的な自治権を勝ちとってきた。施政権返還という歴史的な転機に直面して、「自治構想もなく、たんに類似権なみという形で日本の中央集権体制に組み入れられると、まさに悔いを千載に残すことになろう」(22)と比嘉氏は警鐘を鳴らしている。だからこの際、遅まきながら一刻も早く施政権返還後における沖縄の自治構想を案出し、沖縄住民のコンセンサスを求める必要がある、このような焦燥感に駆り立てられて、対本土政府との交渉において堅持すべき沖縄の自治の基本姿勢を比嘉氏は提示する。そして公害問題を契機に本土でも地方自治のあり方が再検討されつつあるので、沖縄の自治闘争が本土の人々の協力を得て、日本全国における地方自治確立の突破口になってほしいと述べている(23)。

(2)地方自治の概念

 地方自治の基本理念はいうまでもなく、当該地方に居住する人々の意思が最大限に反映された政治、行政を行なうことであって、地方自治は普遍的な民主主義の原理につながるものであり、それは主権在民を一大原則とする日本国憲法にも保障されている(24)。そして沖縄の復帰運動は、民主主義をめざす運動だったと比嘉氏は言う(25)。

 ひとくちにいえば、沖縄の復帰運動も民主主義を目指すものであった。・・・沖縄住民の意思を無視して米国に附与された施政権を奪還し、人民主権の民主的原則を実現することにあったといえる。・・・沖縄住民の自治権獲得闘争も人民主権説の実現を目標とするものであったといえる。その意味で、自治闘争は復帰運動と密接な関連性を有している。この闘争は、「自治に勝る善政なし」という前提のもとに、具体的には行政主席の公選制、米民政府の布告・布令の撤廃、琉球政府に対する米民政府の干渉の排除、裁判権の拡大など多くの目標を設定して強力に展開されてきた。民意の尊重という民主的原則が、戦前の日本統治下において否定され、種々の形で本土との差別を強制された経験があるだけに、その原則を沖縄住民は強く意識している。

 そしてこれから沖縄が直面する最大の政治課題は、いかにして中央からの支配を排除して地方自治を確立するかである、と比嘉氏は言う。その際、自治概念をめぐる論争あるいは沖縄住民の自治能力への批判もあるだろうが、しかし「沖縄の住民は、自らの意思に基づいて行われる政治、行政が地方自治であり、地方自治の尊重は民主主義の基本であることを一貫して堅持し続けなければならない」(26)。

(3)琉球政府の実情

「自治は神話である」と言い放った高等弁務官もいたように、沖縄における絶対的な政治権力は米国政府にあった。だが沖縄住民の長期にわたる自治闘争の結果、琉球政府は立法、行政、司法の各分野で実質的に大幅な権限を行使するようになった。立法院は、対内的に適用される法律を本土の法律に倣って制定し、米民政府の布告や布令を徐々に整理してきた。1968年に実現した主席公選によって、沖縄におけるほとんどの許認可権は主席が掌握するようになった。琉球裁判所の権限も拡大され、米民政府は政治的反発を恐れてもはや干渉できない状態になっている。
だがこうした琉球政府の権限も、本土政府の復帰対策要綱から判断すると、返還後には大幅に縮小されそうである。教育委員の任命制など本土の法律や制度が画一的に適用されると、沖縄の自治は後退する。主席の許認可権は本土政府に吸い上げられ、沖縄の実情をよく知らない各省庁の官僚によって行使されることになるだろう。裁判所制度も大きなブロックに含められると、地理的に本土から遠く離れている関係上、不便なものになるだろう。現在進行中の復帰準備作業は沖縄住民が願う自治権確立への道を逆行している。
この逆行は、基本的には、復帰準備の主導権が、住民の自治と福祉の最優先を標榜する琉球政府にではなく、沖縄における軍事基地の保持を最優先する日米両政府にあることに起因する。日米共同声明(1969年11月)に基づく復帰準備委員会は、日米両政府代表を委員として構成され、琉球政府代表は同委員会に顧問の資格でしか参加できないし、また復帰対策要綱案を作る中心的機関は、沖縄を他府県並みに画一化しよとする総理府の沖縄・北方対策庁である(27)。
だが比嘉氏が問題として強調しているのは、こうした形での復帰準備を沖縄側が許容していることである。というよりもむしろ琉球政府が日米両政府主導の復帰準備に積極的に協力しているようにみえることである。琉球政府をそのように仕向けている主な原因として、沖縄側の強い県並み(=本土並み)指向性と屋良主席の弱い政治的立場を彼は挙げている。というのも琉球政府の要望事項をみると、一定期間の特別措置や経過措置の適用を要請しているとはいえ、琉球政府は基本的には安易に沖縄の他府県並みを志向し、多くの行政機能を国へ移すことを考えていることがわかるからである。こうした安易な考えの背景には、戦後の米軍統治下における長期にわたって、沖縄が変則的な地位に置かれたために、いわゆる国政機能まで担当し、財政的に不当な負担を背負わされてきたという意識が働いている。もちろん沖縄が本土政府の政策によって差別と犠牲を強制されたために生じた、他面に及ぶ本土との格差を是正することは国の義務である。だがこの義務を果させるために琉球政府の行政機能や権限を国に移す必要はないと比嘉氏は言う。県並み指向性の背後にはまた、本土政府の画一主義はとうてい変更できないものであるという事大主義的意識が働いているかもしれないとも言う。屋良主席は71年1月に諮問機関として復帰対策県民会議を発足させたが、その答申をみても主体性を欠き、県並み指向性を脱却できておらず、こうした琉球政府の県並み指向性は、本土の地方自治の実態からみて、沖縄の自治権確立の目標に逆行するものでしかない、と批判している。また屋良主席の弱い立場については、本土政府からの財政支出を要請しなければならない立場と、野党が支配する立法院に対処しなければならない状況を挙げている。こうした不利な状況に対処すべく屋良主席は県民党的立場を強調するようになったが、そこから行政府と与党・革新団体との間に亀裂が生じた。このように琉球政府は強い県並み指向性と屋良主席の弱い政治体制のために主体性を発揮していない、と指摘している(28)。

(4)自治確立のための基本構造

 それでは施政権返還後の沖縄において、自治を確立するにはどうすべきなのか。前述した地方自治の基本理念からも、沖縄にとって自治とは、住民の意思を最大限に反映させて、権威的な政策を決定し実施することにほかならない。この自ら治める権能は、もともと住民が保有しているものであって、たとえその一部を国へ委譲することはあっても、国から委譲されるものではないという認識を出発点とすべきである。このような認識を前提にすると、沖縄の施政権は本土政府にではなく沖縄住民に返還されるべきことになり、琉球政府はその行政機構や機能や権限を本土政府へ移すことによって縮小するのではなく、逆に強化拡大する努力をしなければならない、と比嘉幹郎氏は主張する。琉球政府はまた、強力な中央集権体制の日本においては、県並みを指向すれば自治権の大幅な縮小につながるという危機感を持って復帰対策を策定しなければならないのである(29)。

・沖縄州
したがって施政権返還後の沖縄において地方自治を確立するためには、たんなる本土の類似権の政治・行政を模倣するのではなく、沖縄独自の特別自治体を構想する必要がある。・・・この特別自治体を沖縄州とでも呼ぶのが適当であろう。この呼称は、憲法で特に規定された権能を連邦政府が有し、その他はすべて州政府が留保している米合衆国における国と州の関係を参考にしたものと考えてよい。
沖縄州は、軍事や外交などに関連する特定の権能以外のすべてを保持することが望ましい。軍事、外交の分野においても、特に沖縄が密接に関与している政策については、沖縄住民の意思が十分反映さらたものにしなければならないことはいうまでもない(30)。

・行政主席
沖縄特別自治体の行政主席は、一定の任期で住民の一般投票によって選出され、住民生活のあらゆる部門に及ぶ事務について自主的権限を保有し、中央政府の指揮監督は受けないものとする。そしてこの行政主席が原則として各種の許認可権を持ち、電力や水道用水供給など公共事業もその管轄下に置くものとする。したがって、この特別自治体は、本土の都道府県のような中央政府の行政機関のひとつとして、いわゆる国政事務を管理し執行する責任を負わされるものではないのである(31)。

・沖縄開発庁と沖縄総合事務局の設置に反対

沖縄総合事務局は、かつてその絶大な権限をほしいままに行使した米民政府のようなものになりかねないのである。いやむしろそれはつぎに述べる三つの点において、沖縄の自治体にとって米民政府よりも対処しにくいものになるかもしれない。第一に、米民政府は本国政府から大幅に権限を委譲され、政策決定においてその意向が十分尊重されていたと考えられるが、中央集権的伝統を持つ日本政府はその出先機関の権限や意向をさして重視しないであろう。第二に、日本の行政官僚は、米民政府職員とは異なり、言葉のハンディキャップがなく、沖縄の実情を熟知し得る能力をもっていると思われるが、その能力が悪用される危険もあるし、また地方自治体をコントロールする巧妙な技術にもたけている。第三に、米民政府が少数の例外を除き陸軍省のスタッフで固められていたのに対し、沖縄総合事務局は、各省庁から出向してきた職員で構成され、総合とはいうものの、おそらく日本行政官僚制の最大といわれるセクショナリズムを克服することはできず、実際には各省庁ごとのバラバラのタテ割り行政しかできないであろう。

沖縄開発庁構想は沖縄住民と密着した場所で民意を尊重し総合的に調整された形での政治、行政を実現できるものではないと思われるので、その構想に反対せざるを得ない。また本土の府県なみにその他多くの国の行政機関を沖縄に置くことにも賛同しかねる。なぜならそれは、地方自治の本旨にもとり、国の出先機関を最小限にとどめるべきだという臨時行政調査会や行政管理委員会での整理の勧告にも沿うものではないからである。たとえ、国の出先機関を置くことが必要だと考えられる場合でも、その機関の性格や沖縄の特殊性、住民に及ぼす影響等を十分に検討した後に決定がくださるべきである。沖縄で完全自治体の実現を目指すのであれば、原則として、国からの機関委任事務という考え方を棄て、これを自治体の自治事務として国の関与を排斥する姿勢が必要である(32)。

・議会 
 沖縄を特別自治体にするためにはまた、強力な立法権限を持つ一つの議会も設置しなければならない。この議会は、定期的に住民によって選出される代表で構成する。本土の現行法規の多くは、沖縄住民不在の間に制定されたものであるから、その適用の可否について、沖縄の議会に検討し決定する権限を与えることが望ましい(33)。

・裁判所
裁判所制度に関しては、沖縄住民ができるだけ現地で裁判を受けられるよう考慮すべきであろう(34)。

・特別措置の必要性
 このような沖縄特別自治体構想を実現するためには、中央政府が沖縄に関する数多くの特別措置を講じる必要がある。・・・周知のように、沖縄はこれまで中央政府から差別と犠牲を強制されてきた。このような差別と犠牲の排除が沖縄の自治にとって何よりも重要なことであり、特別自治体の実現はこれを可能にするだろう。そうすればまた、過去においてみられたような沖縄本島の宮古や八重山諸島などに対する差別と犠牲のしわ寄せをなくし、市町村レベルにおける自治権も拡大強化できると思われる。

 沖縄特別自治体にとって最も困難な課題は、国からの財政支出を確保することである。・・・格差を是正することは、戦前、戦後の沖縄の犠牲を考えれば、本土政府の当然の義務であり、そのためには国からの大規模ば特別援助と財政投融資を行うべきである(35)。

・沖縄特別自治体設置の理由

 a沖縄住民の意思を最大限に尊重する政治、行政 ――― 一般的にいえば、草の根の民主主義というユニバーサルな価値 ――― を実現するために必要である。
 b沖縄の特殊性から
  沖縄は、本土の各府県と同一に論ずべきものではなく、本土全体と対置される一つの自治体として取り扱うべき特殊性をもっている。地理的には、沖縄が本土から遠隔の地にあり、かつ広大な地域にまたがっている。歴史的、文化的背景も、「大和」との対立意識にもみられるように、かなり異なる。また戦後には、ユニークな半独立的地位における政治、行政を経験してきた。沖縄住民が、戦後強力な自治闘争によって獲得した権能の保持を主張し、本土から分離されている期間中に採択された本土の法律や制度の適用に反対するのも不当だとはいえない
 c沖縄特別自治体の設置は、本土における地方自治の確立にも大きく寄与すると思われる。日本全国に真の意味における地方自治を押し広める突破口ともなるだろう。

4 野口雄一郎の「沖縄自治州」構想・・・“復帰一年 沖縄自治州のすすめ”(『中央公論』1973年6月号)

(1)政治目標としての自治州構想

 これまでの3名が沖縄もしくは沖縄出身の研究者による沖縄自治州構想であったのに対し、野口雄一郎氏は沖縄出身ではなく中央大学教授(経済学)であった。また上記の3名の論説が復帰前に発表されたのに対し、野口氏のこの構想は復帰後一年経過した1973年6月であった点でも状況が異なっていた。
 本土復帰して一年経過した沖縄は円切り上げや海洋博インフレなどで政治的、経済的困難に苦しんで閉塞状況にあるが、この閉塞状況を打破するためには新たな政治目標が必要なのであり、沖縄の未来への展望を切り開く政治目標として沖縄自治州構想を提唱した、と野口氏は冒頭で述べている(38)。当時、坂本義和教授の「沖縄非軍事化宣言」や新川明氏らの「沖縄独立論」や飛鳥田一雄横浜市長の「沖縄特別自治区」といった政治目標を挙げているが、野口氏自身の沖縄自治州構想は、沖縄全体を結集でき、しかも本土復帰という現実を逆手にとることができる政治目標となりうる、という。

(2)構想を支える原理

 72年5月の本土復帰によって、沖縄の改革エネルギーは本土に吸収されてしまった。沖縄自治州構想は、地域住民の自治権を強化することによって、改革エネルギーを再び沖縄に取り戻そうという運動であると、野口氏は主張する。彼の沖縄自治州構想は運動論なのであり、だから設計図とか政治形態はさほど重要な問題ではない。重要なのは、沖縄住民の主権を本土からの抑圧に抗して確立することができるかどうかという可能性である。
 地方自治の理論的根拠についてはドイツ型の自治権伝来説と英米型の自治権固有説の二つの原理がある。伝来説は、国家あっての地方であり、すべての権限は国家にあるので、国家から国家の判断で委譲されるのが自治権である。これに対して、固有説は、自らの地域を管理する自治権はその地域住民にとって固有のものであって、国から分かち与えられたものではない。この両者は相対立する理論であるが、沖縄自治州の発想は固有説に立脚し、「自治権は沖縄に固有のもの」と考える。言い換えれば自治州の構想は、これまでの国―県―市町村―住民という政治の流れを、住民―市町村―自治州―国という形に逆流させようとするものである。それは中央集権体制を解体し、地方分権を推進するための行政形態である。すなわち沖縄におおいかぶさっている明治以来の中央集権を解体し、政治を住民の手に取り戻すことが狙いであり、そのための提案が沖縄自治州の構想である、と野口氏は述べる。
 このようにこの構想の本質はあくまでも運動論にあるので、この構想がある程度、非現実的なのは避けられない(39)。

(3)なぜ「自治州」なのか

 「沖縄独立論」とか「沖縄共和国」は現在の沖縄県民には受け入れられないだろう。また連邦制を実現するには、単一国家を明示している現行憲法を改正しなければならないので難点が多すぎる。それで政治的分権ではなくて行政的分権である自治州を選んだ、と彼は説明する。行政的分権とはいえ自治州は、実質的には独立国家や連邦に近い権限をもつことができるとも補足している。ちなみに飛鳥田市長が提唱した「特別自治区」は、あくまでも国の地方自治の枠のなかで特別の処遇を要求するものであって、自治州に比べれば、より消極的であると、野口氏は付加している(40)。

(4)沖縄自治州の骨格

 前述したように、沖縄自治州の設計図などはさほど重要な問題ではないと野口氏は述べたにもかかわらず、自治州の骨格を設計しておくことだけは提案者の義務であろうと彼は考えて、以下のようにその骨格を示した(41)。

a沖縄自治州は、州知事のもとに、州政府をつくり、現有の県固有の行政事務のほかに、中央政府の行政事務の委譲を受ける。それと同時に、これまで国や県が握っていた権限を、大幅に市町村に委譲する。沖縄開発庁などの国の出先機関の業務も、すべて州と市町村に移される。すなわち行政事務の再配分が行われ、その中で市町村の自治権を強化し、市町村の行政能力を高める。この高められた市町村の自治能力こそ、自治州の政治的基礎である。州知事は直接公選。
 
b教育制度や警察制度も、自治権強化の方向に沿って改革されるべきである。

c立法制度
 沖縄州議会は二院制を採用する。複雑化し多様化していく州民の多彩な意見と利益をできるかぎり正確に反映させるため。州議会議員は直接公選。
 州議会の立法権は県議会よりはるかに強化され、沖縄に適用される条例については、国で定めた法令よりも優先権をもたせる。

d司法制度
 司法権もできるだけ分権させる。市裁判所を置いて、一定の範囲ではあっても民事と刑事の一審裁判ができるようにする。裁判官の審査制度を強化するが、現在の最高裁国民審査が形骸化しているのとちがって、沖縄という狭い地域に限られているために、審査制は実質的なものになる。そして将来は、裁判官の公選制や陪審員制度を採用することも検討する。いずれにせよ司法権の分権は、行政権の委譲と並んで自治州のシンボル・マークとなる。
 
e地方財政の強化
 沖縄自治州にとっては、地方財政を強化するために、現行の税制体系を根本的に改革し、地方税を飛躍的に強化する必要がある。所得税、法人税、酒税のうちの地方に配分される比率を高める。しかし所得の低い沖縄では、それだけでは州の財源も依然として十分でない。そこで国に対して、地方交付税の配分を特別枠で行なうように要求する。そしてできれば、この特別枠を制度的に保証するようにすべきである。もともと沖縄の貧しさは、長期にわたって異民族支配のなかに放置されてきた本土と中央政府に責任があるのだから、これは当然の措置である。

f沖縄の地域開発に関する制度と組織
・本土復帰後の沖縄の開発は、沖縄開発庁と本土の政府系金融機関によって推進されているが、沖縄の深刻な経済危機に対して無力である。
・沖縄自治州は、悪化した沖縄経済を再建するためにも、独自の開発機構と 開発資金をもつべきである。
・沖縄開発庁を解体して州知事に直結する地域開発庁を設け、さらに復帰に よって一般金融機関に変わった琉球銀行を州立銀行に改組し、債権発行を 行なわせ、開発金融専門の「沖縄開発銀行」を設立する。
・日本開発銀行からの出資も受け入れるが、州知事の直接の指揮・命令を受 けるようにし、自治州の経済的基盤である沖縄経済の再建と自立のための 最大の手段とすべきである。

g中央政府との調整にあたる「連絡調整委員会」の設置州代表をオブザーバーとして、中央政府の閣議に参加させるとか、あるいは各省庁の重要な諮問機関に参加させて、自治州の独自性を中央政府の行政に反映させる。注意すべきことは、もしも自治州が十分な行政的力量をもたず、しかも行政的経験の蓄積に努力しないならば、この委員会は逆向きのパイプとなり、中央政府が自治州を支配する手段に変わりうるという点である。

h「自治州外交防衛委員会」の設置
・中央政府が独占してきた外交権と防衛権の行使に対して、沖縄という地域の特殊な立場から、実質的なブレーキをかける必要がある。沖縄の場合ほど、その運命が日本の外交と防衛によって左右される地域はない。そのための制度として、州知事に直結する「自治州外交防衛委員会」を設ける。
・この委員会は、州民の意見を集約して、中央政府の外交・防衛政策の決定には、委員長が州知事の代理として直接に参加して、州独自の意見を積極的に反映させる。発言権の確保が主で限界はあるが、しかしそれでも中央政府の外交権と防衛権の独占にクサビを打ち込むだけでも、日本の外交・防衛の路線を変えるためには非常に有効であろう。

(5)非武装中立の原点へ

・非武装化して平和の島に戻ることは沖縄住民の宿願である。したがって沖 縄自治州は、次のような内容の「非武装宣言」を行なう。
a自治州成立後、直ちに日本の自衛隊は本土に引き揚げる。
b自治州成立後3年以内に米軍基地を段階的に全面撤去することを、米国に要求する(42)。

(6)九州自治州との関係

 同じ自治州という発想が、永年にわたって中央政府から阻害されてきた九州でも提案されていることを考慮すべきだと野口氏は最後に述べている。九州自治州の構想は、西日本新聞社が設けた「あすの西日本を考える三十人委員会」の政治行政部会が提案しているが、林田和博教授や手島孝教授等が中心になってまとめられ、自治の制度・機構についても高度の学問的な検討がなされていると彼は評価している。野口氏の沖縄自治州構想は、九州自治州構想に負うところが多い。だが九州と沖縄の関係は微妙であり、両自治州の一体化か共存かは、自治州構想の進展とともに、慎重に討議すべき課題として今後、浮かび上がってくるだろうと述べている(43)。

(7)結び

 最後に、自治州の現実的な可能性については検討できなかったことが残念であると述べた上で、次の言葉で野口雄一郎氏は結んでいる(44)。

 沖縄自治州という構想が、復帰によって沖縄にあらわれた現実を逆手にとりつつ、「祖国復帰」にかわる新しい沖縄のコンセンサスをうちだす契機になる問題提起であることだけは、忘れてはなるまい。


5 総括

 「沖縄特別自治体」構想を提唱した平恒次氏は、この構想に関して「きわめて具体的、かつ法制的に、専門家の立場からの議論を、比嘉幹郎氏が提起されたことを特記したい」(45)と述べている。また前述したように、久場政彦氏も比嘉幹郎氏の沖縄特別自治構想に言及している。久場氏と比嘉氏はともに当時、琉球大学法文学部教授であったし、平氏と比嘉氏は1950年にともに米国に留学している。したがって沖縄出身の三氏は専門分
野は違っていても交流があり、沖縄自治州構想を共有し合っていた仲だったといえよう。
 ただ平氏は民族的主張から琉球独立論的色彩が濃厚であったのに対し、比嘉氏と久場氏の主張には民族的主張は希薄であり、比嘉氏は地方自治論、久場氏は地域開発論のそれぞれの専門分野が濃厚であるといった相違点がある。こうした彼らの主張に当時、本土の研究者のなかには前述した教授等意外にも少なからぬ賛同者がいたことが推測される。たとえば戦後沖縄の研究に貢献した中野好夫氏は、復帰の直前に次のように述べている(46)。

 ここ両三年、沖縄自治州、ないしは自治県といったような構想を、沖縄県民側からの発想として見かけたことがある。
特にあまり注目も惹かなかったようだが、現在となってみれば、この構想、改めて考え直してみる必要があるのではなかろうか。
 独立論はしばらく措くとしても、ある種特別の自治県制を主張、要求することは、沖縄同胞の当然の権利としてあるように思えるのだ。おそらく本土保守政府が、もっとも渋い顔をするであろう要求にはちがいないが、現にアメリカに対しては、超々特別県的な大基地群の存在を、復帰後もなお唯々諾諾として許しているのではないか。この現実条件、特別事情に対応する行政上の特別県的措置をある程度認めたからといって、少しでも不思議でなければ、本土政府の権威に関することでもないはずである。もちろん、一定の期限つきというのでもよかろう。要するに、基地群の縮小と並行してである。そして基地なき沖縄が実現したとき、行政的にもまた完全に本土並みの一県という、これなら筋も通るし、話もわかる。
 また事実、沖縄県民には、それを要求して然るべき十分の理由があるのだ。島津支配時代、また明治以来第二次大戦期にいたるまでの旧い差別処遇は、しばらくおくとしても、現に沖縄戦、そしてまた平和条約第三条にもっとも端的に示された処遇は、明らかに差別である。この歴史的特殊事情が、どうして今日、一種の特別自治県を要求する根拠、理由として不足であるのか。
  
 そして中野氏はソ連のウズベグ共和国やトルクメン共和国、イングランドに侵攻されたアイルランドの抵抗運動の歴史に言及しながら、これらの歴史や現実が、沖縄の自治権要求運動、少なくとも特別自治県制要求の運動を、改めて考え直してみる十分な根拠になる(47)と主張したのである。
 本稿で最後に登場した野口雄一郎氏も復帰後一年の時点で沖縄自治州論の意義を再認識した上で、復帰後の苦難に満ちた沖縄の未来を切り開く全県的運動のための新たな政治目標として沖縄自治州構想を掲げようと提唱したのであった。
 また復帰前後の時期に、経済学者として復帰後の沖縄経済開発のあり方について、「公害をもたらした経済主義の本土の拠点開発の後追いをすべきでない」、「沖縄の美しい自然環境と文化が保全されるように、総合的で、地元を主体とした経済開発を」と強く要望し続けた宮本憲一氏(大阪市立大学)は『世界』の1971年11月号「<座談会>沖縄復帰政策を批判する」の後半で、「特別都道府県制」を提唱している。この対象は沖縄だけではなく、もっと一般的な提案であったが、北海道と沖縄を想定したその第2グループについて次のように述べている(48)。

その特別都道府県とは何かというと、国家事務のうち内政部門を、すべてこの地域に委譲する。国政のうち内政の部分を、この地域の都道府県知事に委任するという形をとる。その事業を遂行するに必要な財源として、国税その他国家財源(財政の原資を含む)の一部分を国家がその団体に委譲する。つまり国家レベルの内政権をもつ特別都道府県制というものを敷いてみたらどうか。

 この宮本氏の「特別都道府県制」構想も、名称と手法は異なっていても沖縄自治州の考え方や内容にきわめて近い。冒頭でも述べたように、宮本氏はその後もこの構想を引き続き、提唱し続けた。
 現在、わが国では地方分権の一環として道州制が再び、各地で議論され始め、中央政府もこうした動向に注目している。“沖縄の日本復帰”という時代の大きな節目に主張されたこれらの沖縄自治州もしくは沖縄自治地域の諸構想は、こうした動向にどのように関連していくのであろうか。その行方を見守りたい。

 


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